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第二三心会会長 高橋 政嘉

第8回

2025/3/08

<テーマ> 年末年始【その2】年始編

 新年を迎えて早2ヶ月が過ぎました。前回の年末編の続き『年始編』を書かせていただきます。元旦の朝は日の出とともに、戸主が井戸から水を汲みて上げて(昭和30年頃までは釣部(つるべ)で汲み上げていた)家々の神々に供えてから、やかんでお湯を沸かしたり、雑煮の水としたり、台所の水瓶(亀カメ)に溜め入れていました。新年の水は[若水]とされ、今年1年の健康を願って、大切に扱われました。元旦からの三が日の朝食は雑煮が続くので、幼少の頃は大そう嬉しかった。年間を通じて、お餅を食べられるのは正月と3月の節句だけで、近隣で上棟式が有った時に投げ餅を拾って持ち帰り食べるぐらいでした。餅は今では何時でも買って食べられるので、半世紀前までとは隔世の感が有ります。お雑煮と共に朝食にお節料理も並べられ、神様・仏様や家稲荷に一口ずつ供されてから、家族全員でご馳走に供しました。食後に祖父母や親から半紙に包んだ[お年玉]をいただきました。戸主は食後に本家筋や近隣に年始の挨拶をしながら、氏神様に初もうでして、家墓と菩提寺に詣でていました。昭和40年以降、初売り福袋や名所初詣でブームで浮かれていた事もありました。かつては病院も医者も少なく、救急車もない時代でしたので、健康も家の繁栄も豊作祈願もすべて神頼みなのです。門松・お札・お賽銭・だるま・念仏講・日待ち講などすべてが神様へのお願いの儀礼です。その為,年神様が元旦に家に降りてこられているので、この生田辺りでは1月7日までを[松の内]とし、神様をおもてなしするので、田畑や山の遠方には出ず、家かたづけや繕い直しなどを中心に過ごしていました。商家等へ奉公に出ていた家人も里帰りして来て家族が揃うのもこの時期でした。七草粥も健康祈願で若い青菜を食べて、更に厳しくなる寒さに負けない祈りです。1月11日は鏡開きで年神様に供えていた供物の鏡餅を手で割り煮たり焼いたりして食べる日です。また山に入り刃物を使う事が許される日とも先人は言っていました。年始行事の締めくくりは14日のセイの神(どんど焼き)です。昭和40年代の南生田の区画整理工事開始以前は栗谷町会会館下の水田に孟宗竹と茅を素縄で網やぐらを作り、正月飾りやだるまなどを集めて燃やし、残り火で団子を焼いて食べました。正月行事の殆どが明治以前から行われてきた健康と豊作を祈る行事が継承されていました。

第7回

2024/12/07

<テーマ> 年末年始【その1】年末編

 12月は「師走」と表記の通り、江戸の飛脚、明治の郵便、昭和の電話、平成の携帯・スマホから令和も情報のスピードが時間と速さに比例いています。現代の情報量は[江戸時代の庶民の1年間分]が1日に入手可能とのことです。さて今回は、90歳には〈再現〉80歳には〈思い出〉70歳には〈旧石器時代?〉と言われるような「ふるさと栗谷」の【年末】です。「年末までに終えて、新年《歳神(トシガミ)》を迎える」のが毎年繰り返しでした。「師も走る」月でした。昭和50年代に錦が丘と南生田の宅地造成が栗谷の景観を山野から都会地にしました。今年の[当家の初霜]は11月26日でした。霜が降りる前にしなければならないことは、麦畑の「麦踏み」と葉物野菜を霜害防止の「霜よけ笹切りと笹刺し」でした。山仕事は「モヤ狩り」「粗朶(そだ)作り」「落ち葉掃き」「薪切り」の順で毎年山の狩場を移して、「山そうじ」が年末の仕事でした。「山そうじ」は一家総出でした家もあれば、男人のみで行い、女人は「畑の収穫と囲い」や「家の障子張」「煤払い」「餅つき準備」など男人より良く働いていました。1975年≪昭和40年代≫まで「家産家消」の感でした。生田商店街の[歳末抽選券付大売出しもあり、お節料理の準備、餅つき手伝いにと、31日の晦日市〈府中市の大國魂社〉の日も女人は大忙し。新年準備や晦日そばやお年玉準備で歌合戦までの時間〈当時は午後9時開始〉 嗚呼懐かし

第6回

2024/9/14

<テーマ> 「祭礼・まつり」

 令和6年(2024年)9月は「祭礼・まつり」についてです。まず名称(呼び方)についてですが、近隣では「お」をつけて「お祭り」と呼び合っています。今は「紙の普及」と「電波」の時代で、「お祭り」は地元民と古老の使う言葉が子や孫に引き継がれてきました。栗谷の「お祭り」と言えば、かつては杉山神社(西生田3丁目)のことでした。「杉山神社」でなく「杉山社」と呼んで。近隣で長沢の諏訪社、桝形の天神社、細山の神明社など「○○社」が大多数で「○○神社」はお伊勢森の高石神社、生田駅南の五反田神社など、転入されてこられた人々のためなのか?「○○神社」と呼ぶものも増えてきました。さて、掲題についてですが、「お祭り」と言えば以前は9月20日が大作「杉山社のお祭り」と「お祭り」の日は地域ごとに決まっていましたので、9月、10月は旧生田村の7つの社(神社)「お祭り」が行われていた。大社・神宮もあれば、豊作祈願や厄除けの村社・郷社もあります。『社』の縁起は様々ですので、興味がある方は社殿脇の縁起掲示板や各町会・自治会の記念誌を町内会館や図書館等で読んで下さい。栗谷の郷社で、生田村の村社でもあった杉山社はかつて大作・栗谷・五反田と長沢の1部の「社(やしろ)」でした。合社分社の繰り返しで現在、栗谷は杉山社から分離して、岸家の氏神社「須賀社」と小峰家・井田家・城田家・髙橋家の氏神「山王権現社」で祭礼を行なっていました。コロナ禍以降「山王権現社」は祭礼を行なわない事となり、栗谷の「お祭り」といえば「須賀社のお祭り」のみ6月初旬に町会も協力し須賀神社祭礼実行委員会という形で手作りの「お祭り」をしております。
 二百十日の役員会・二百二十日の寄合・山本神楽・夜店屋台がなくなりましたが、地域の交流の「お祭り」を楽しみましょう。  

第5回

2024/6/8

<テーマ> 閑話「川崎市制100年に際して」「20年ぶり新紙幣の発行」2024年6月

 3ケ月ぶりの今回は7月1日に川崎市が市制100年とのことで6月も市内イベントがたくさん計画されていますので、今回はそれに因んだ事を書かせていただきます。栗谷育ちの高齢の方は川崎市制にそれほど関心が無いのではと思います。史的に栗谷を含む生田地区(麻生区東百合ヶ丘・高石・百合ヶ丘・多摩美・細山・千代ヶ丘・金程・向原も生田地区とされていた)は川崎市に併合は昭和13年で、市制では86年目です。それ以前は神奈川県橘樹郡生田村で、郵便の宛先も「川崎市生田6000番地」で全国から配達されたことで川崎市に併合されたと実感しました。村役場は川崎市稲田支所生田出張所となり、議員も村会議員が市会議員に、市内9支所体制となり橘樹郡という郡名は消滅しました。翌年昭和14年に柿生村と岡上村の2村が都築郡から、法人税の豊かな川崎市への編入を強く希望し、県も川崎市会も了解し、現在の川崎市域がほぼ決まりました。川崎市域は橘樹郡とほぼ同一地域です。多摩川と鶴見川に挟まれた地域が郡域で、南部の川崎町と御幸村の浄水場利用に大師村と田島村が加わりたいとの意向で、神奈川県で横浜市制(明治22年)より35年後の大正13年に県内3番目の市として、南部の4町村で川崎市が誕生しました。川の崎の川崎市がその後、中原地区を、そして高津地区をと市域を広げていきました。関東大震災と伝染病が浄水を求め川崎市誕生の契機となったのです。
 次に生田村が川崎市に併合の昭和13年に、紙幣(中国・東南アジアの偽札)を生田で製造することとなる施設は次号以降に さて7月3日に新紙幣が20年ぶりに3種類発行されます。ニセ札が出るたび、紙幣が発行され、令和の現在、国内で有効に通用する紙幣は22種あり、今回の発行で25種となります。新紙幣に次号までに会いたいネ。水分補給も忘れず。  

第4回

2024/3/9

<テーマ> 山と川と集落 2024年2月

 私たちの住む川崎市北部は標高数十~百m前後の丘陵地域で、山といえば奥多摩か丹沢を指した。身近では大山と御嶽山は豊作祈願や商売繁盛を祈願する大山講や御嶽講があり、御氏に招かれて代参が行われていた。栗谷では群馬県の榛名山への榛名講は昭和40年代まで初午のあと、順番を決めて年1度代参していたように思う。
このように山は祈願の対象として存在するものであった。登戸地域では明治時代に富士山信仰が盛んとなり全国から多数の信者を集めた丸山教なども稲作の豊作祈願であるように思います。現代の山は登山にウェイトがおかれ、安全登山祈願のための神社に?叔父から昭和22年ころ、兄弟で富士登山をした話を聞いたことがあった。草鞋を綯い、腰紐に4足いわいつけて、小野路から聖蹟桜が丘まで歩き、八王子と大月で乗り換えて、富士吉田駅で下車し駅から歩き8合目の山小屋1泊し須走を下り御殿場駅まで歩いて御殿場線と小田急で帰宅したと話してくれた。よく歩いたものだと驚く。
次に川です。東は多摩川が山梨県境から東京湾に流れ下り、木材を筏組んで運んでいた。河口からは伊豆の石材を運んでいた。西は鶴見川が町田の小山田~横浜の鶴見まで流れ下る、この両河川の役割は水田の稲作の水供給が最大使命である。支流の要所に堰を設けて水田へ引水していた。細山を源とする五反田川は以前{大川 }と呼んでいた。この川に谷戸川が沢山流れ込んでいた。新川{二ケ領用水}と合流するまでたくさんの水車が昭和初期まで粉ひきをしていた。細山、大作、栗谷、五反田、飯室の各部落に水車があった。子供の水遊び場であり、魚とりの場であった。釣るより突くか網採りが面白く、ウナギもよく捕れた。
 栗谷から五反田川に流れ込む谷戸川は南生田1丁目の野球場から栗谷1丁目の川戸橋までと南生田中学校の辺りにあったろうば池から吉田ビルの脇を通り五反田川に流れていた。この2つの谷戸川は南生田の地下を通る川崎水道の導水管の壁水を受けていたので水は冷たく良質米は難しかった。栗谷3丁目から五反田川への2つの谷戸があり小川が水田の際を流れていた。栗谷にとって五反田川左岸と旧津久井道間は畑と水田の良地であった、今世田谷{津久井}道と小田急線の川戸橋から生田駅まではほとんど栗谷の人の所有であった。           

第3回

2023/12/10

<テーマ> これからのテーマ・参考図書と資料 2023年12月

 1・近代以前について
① 山と川と集落 ②信仰と祭礼 ③疫病と石碑 ④生業と生活様式 ⑤食と医 ⑥まとめ 
 2・近代から現代へ
① 明治の東京遷都 ②学制制度と学校 ③近代の自治と役所 ④軍隊と徴兵制度 ⑤租税 ⑥道と交通 ⑦鉄道 ⑧ランプと電気 ⑨井戸と水道 ⑩炭焼きと薪とガス ⑪着物と洋服 ⑫葬儀 ⑬裁縫からミシンへ ⑭自給のみそ・しょうゆ ⑮店から商店街へ ⑯番地から丁目へ ⑰貨幣のこと ⑱農業の変化 ⑳町内の産業は ㉑飛脚から回覧そして電話やネットへ ㉒住宅の仕様と構造変化 等々
 3・個別事物案内
① 消防署と警察署 消防団と駐在所・交番 ②養蚕と桑の木 ③禅寺丸柿と多摩川梨 ④乳牛と養鶏・養豚 ⑤家畜と野生動物 ⑥道普請と道路改修 ⑦細王舎 ⑧日本女子大学が西生田へ⑨昭和の三田ヶ原の変遷 ⑩春秋苑と地域のかかわり⑪公団住宅~宅地造成~社宅増大そして地権者の区画整理事業へ
 4・参考図書と資料はどこで見られるか
近い順 町会会館・学校の図書館・市立図書館と分館・区役所ロビーや地域振興課・柿生中学内柿生郷土資料館         大山街道ふるさと館・中原図書館(川崎市の中央図書館)」平和資料館 以上は川崎市   

第2回

2023/9/09

<テーマ> 先人の話を聞こう・伝えていく 2023年9月

 今年も8月の台風6号の迷走に驚きました。台風の迷走は昨年もありましたが、驚きは台風の進路を気象庁が数日前から迷走のコースも、その誤差の少ないことです。気象科学の進歩に驚きます。さて、9月は秋のスタート月と以前は思っていましたが、10月半ばまで近年35度越えの夏が続いています。戦後の大きい台風が9月26日ころよく来たので台風の厄日と言われてきました。大きな台風では数時間の停電しばしばあり、ロウソクと懐中電灯が必需品でした。谷戸(やと)田の川が南生田方面から北流し、大川(現在の五反田川)に至る1キロ程にたくさんの崖崩れ跡が露出していました。崖崩れで水田が土砂で埋まり、収穫間近の稲穂をどうにかして、少しでも収穫出来たらと隣近所総出で、台風通過後はモッコで水田の土を運び出こともしばしばありました。 さて、今回から「ふるさとの近現代シリーズ」は教育者でも郷土史家でもない私(M・高橋)が40年前に亡父より野良仕事のまにまに話していたことを題材の柱として進めていきたいと思います。亡父の他、多くの先人からの話も述べさせていただきますが、私自身が聞こうとして聞いたのではなく、聞こえてきたのを今思い出しつつ書いていますので、史実との相違や、記憶ミスもあると思います。遠慮なく、ご指摘いただければ幸いです。 9月1日は210日<にひやくとうか>、10日は220日<にひやくはつか>と言って、立春の日からの日数で、草木の成長が静まり、草取りや草刈りが一段落する時期でした。関東大震災も1日で、異国人が井戸に毒を投げ入れたなどのデマが栗谷の地まで伝わったとの話や異国人が日本人を殺害して金品を強奪しているなどのデマもあり、竹藪へ隠れたなどの話をしてくれた古老もいました。関東大震災から100年の今年ですが、明治以降、『大震災』と言わる<大>の付く震災は3回。阪神淡路と東日本と関東だけです。 生田地区の祭礼のほとんどが9月に集中しています。なぜでしょうか?秋収穫の豊作祈願でしょうか。先人に聞きたいです。 栗谷の祭礼が6月の須賀社と数年前まで行っていた山王権現社が10月は禅寺丸柿の収穫や共同出荷の為でょうか。   

第1回

2023/8/12

<テーマ> 夏休みに図書館へ・栗谷のあゆみ 2023年8月

 今回、町会の「くりのわ」でお話しさせて頂いた栗谷の歴史の拡大版を「くりやニュース」に掲載頂けることとなりました。毎年8月初めの土日に多摩図書館と稲田郷土史会の協賛で{ふるさとなんでも相談会}が多摩図書館でおこなわれています。今年も十数件の質問が出たと聞いています。自分の住んでいる多摩区や生田の歴史を図書館の資料と郷土史会が所有する写真や現物を揃えて教えてくれる年1回のチャンスで、昨年は{栗谷の錦ケ丘の宅地造成の埋め立ての土はどうしたの?}と小学生が相談に来ていました。8月は先人に話を聞ける旧盆の時期です。先人の話が聞けない方は是非近くの図書館に行き、郷土史の棚の本を覗いてみてください。写真集も学校記念誌も町会史も何でもあり、相談にも探してもくれます。栗谷には平成16年に町会50年と町会会館25年の記念誌「栗谷のあゆみ」が発刊されました。多摩図書館にも置かれていますので、是非読んでいただきたい。古老の話や栗谷に在住の著名な方の文章もたくさん掲載されています。「栗谷のあゆみ」は郷土史会の役員が区内の町会史の中で最高の記念誌と褒めておりました。編集委員各位の苦労談等も一読をおすすめします。「栗谷のあゆみ」発刊から19年が経ちました。明治元年から77年が終戦の昭和20年で終戦から77年が昨年でした。コロナ感染の中、ロシアのウクライナ進行や安倍元総理狙撃など暗い年でした。今年はコロナ収束の5類移行・イベント再開や大谷翔平の活躍など国内の明るい話題もたくさんあり、生田小創立150年や来年は川崎市制100年となります。この機に「ふるさとの近現代」を月1回[くりやニュース]に掲載させて頂きます。